読書つれづれ5 自分にとっての読書とは
本書を読まれる方の多くが「読書界の住人」であることを承知しつつ、私自身の「読書」について書いてみたい。
あらかじめ言っておくが、私は「読書界の住人」ではない。それは読書量がどうであれ、自身が「読書」に対して真摯なる態度をもって臨んでいないからだ。
ぶっちゃけた話、私の年間の読書量はせいぜい六十冊止まりである。この中には漫画やビジュアル中心の本、雑誌は入らない。活字中心のもののみである。こうして文章にしてみると少ない感じがするが、一般的な同世代と比べてそう少ないほうではないと思う。
この六十冊という数字は、私が年間に買う活字の本の量である。基本的に本は借りない。私は図書館というものがあまり好きではない。借りたら期限までに返さなければならないからだ。昔は遅延の常習者だった。お金やものだったらともかく、私にとって本というものは特別な重みがある。どんなに内容が軽いものであれ、手にとって読むには相当の覚悟がいる。ある本を読もうと思ったら、かなり長い間自分の目の触れるところに置いておかないと読む気にはなれない。そんなことをしている間に期限はきてしまうのだ。だから買うことにした。私が自称蔵書家になる経緯はそのうち書くことにするが、買うことにこだわる理由のひとつはここにある。
「あなたは本を読むことが好きなんですね」といわれれば躊躇なく「いいえ」と答えたい。買うことは好きですが。
嫌いなのになぜ読んだり買ったりするのか。自分でもよく分からないが、読書に対する強迫観念というものがあるからではないかと思っている。
私は通常、読書は絶対的なものであるとは思っていない。若者の活字離れが憂慮されているが、たいした問題であるとは思わない。それは本を読むことしかなかった世代が言う戯言であると考えるからである。ところが、そう思っているはずの私自身が、実は活字絶対の価値観に縛られているのではないか。心のどこかで本をたくさん読むことで人よりも優位に立てると考えているのではないか。
そういう価値観に縛られて読書をしているのだとすれば、「通俗的なもの」を避けたいとする読書方針に偏るのは当然ではないか。世間からある一定の評価を得ている(書評で扱われるような)本を読みたいとする私の読書(集書)方針の理由が見えてこないか。ミステリーは読まないといいつつ「世界各地に」愛好団体を形成するまでになったホームズ物を好んで読み始めたのはそのせいではないか。結局私は偏った「権威」に縛られて本を読もうとしているのではないか。そして買うことによってその強迫観念から逃避せんとするのではないか。それでも逃れ切れなくなったときにじめて本を手に取り読み始めるのではないか。
私が先に「真摯に読書をしていない」といったのはこういう訳である。「本を読みたいから」読書するのではなく、「本を読むことに価値があると世間でいわれている」(と思っているから)読書しているのだから、私が「読書家」や「読書界の住人」であろうはずがないのだ。
「あなたは本を読むことが嫌いなんですね」といわれれば躊躇なく「いいえ」と答えたい。買うことはもっと好きですが。
大前提を覆してしまうように聞こえるが、これは矛盾しない。他人になんと言われようとも読書は好きである。私は本を読まずに一年間を過ごせるが、本を読みつづけても一年間過ごせると思う。やはり好きでなければ大量の本は所有し得ないと思うし、なにより律義にこんな本をつくってまで欲しい本を探そうとは普通なら考えないものだ。
結局のところ私は本が「好き」だから「嫌い」なのであり、だからこそ「自分にとっての読書」ということを真剣に考えるに値する問題であるととらえることができるのである。
初出「探書手帳12」(1997/03)読書つれづれ5
10年前の僕の戯言にあきれるばかり(笑)
読書つれづれはこれで終わり。
次は無意味草子の番。
僕のペンネーム「無學童子」の使い始め。
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