無料の功罪
僕は、あらゆる商品やサービスは、当然対価を支払わなければならないものだと思っている。
でも、ネットの世界では、なぜか無料であることががスタンダードになってしまった。
ヤフーを利用したってお金がかかるわけではなく、mixiでもお金はかからない。ブログだって無料だし、ニュースもただで見ることができる。
街中ではフリーペーパーが氾濫し、大学の中では無料のコピーや、無料のクリアフォルダの配布まであるそうだ。
奇特な有志がやっているものは除いて、少なくとも企業がやっている無料サービスに関しては、対価はユーザーではなく、どこか別のところが負担している。
たいていの場合は、それは広告が目的で、Livedoorブログにも広告が表示されている。
(ただしこのブログの広告は私の登録したアフェリエイトのもので、その収益は間接的にDiogenesClubのサーバ代に宛てている。もっとも、大赤字だが。)
私も無料サービスを使わせていただいている。
ニュースもテレビ番組表もネットで間に合うので、新聞をとらなくなってしまった。
この無料サービスそのものは大変ありがたいとは思うのだが、その反面、内容に対するありがたみがなくなってしまった。
人間というのは厄介なもので、苦労して得たものに対しては、非常に真剣になれるのに、簡単に手に入れたものには、ありがたみを感じない。
新聞などで、対価を支払って得た情報は、無意識に真剣に摂取できるが、ネットで無料で見たニュースはすぐに忘れ、後に何も残さないことが多い。
私自身、新聞を取っていたときは、あまり興味の無い記事も読んでいた。遠回りかもしれないが、それは確実に勉強になっていたと思う。
でも、ニュースをネットで見るようになってからは、気になる見出ししかクリックしなくなってしまった。
たとえ他者からの強制であったとしても、会社の金で受けた英会話講習と、自分の金で受けた英会話講習なら、その真剣さに差が出るというものだろう。
モノもサービスも、本来無料であることなどありえない。
それを無料化してしまったことによって、われわれユーザーは本当の価値を見失ってしまっているのではないだろうか。
タダより高いものは無いのだ。