文才
人の死というものは、つくづく考えさせられる。
高校時代の友人のお兄さんが亡くなったそうなのだが、その友人の文章を読んで、いろいろなことを考えた。
彼の文章は公開範囲が限定されているので引用できないし、あらゆることをぼかして私の感想だけ書くので、事情をしらな人にはわかりにくくて申し訳ない。
単刀直入に書くと、彼のお兄さんは人生を踏み外して、最後に自分で命を絶ったということらしい。
冷たいかもしれないが、僕は一度しか面識が無く、特に気の毒だとも思わない。
彼の文章とは、それについての告白・報告なのだ。
彼には文才があり、とても読ませる物だった。
名文だ。
だが、私にはどうにも腑に落ちないことがあった。
それは彼の態度があまりにも突き放しているというか、冷たいというか。
そしてその死を「妥当な結末だった」と結論づけていることだ。
それは彼の文才がそう書かせたのかもしれない。
お兄さんや彼の家庭について、私はよく知らない。
よく知らないからこそ言えるのだが、家族であるのに、お互いが極度に無関心なのには驚いた。
もっとも、悲惨な体験を強いられて、関心も何もなかった状態だったのかもしれない。
世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな家庭がある。
彼の人生や家庭に対し、僕はとやかく言う筋合いはない。
僕はその文章を読んで、彼にではなく、彼のお兄さんに共感を持った。
僕も、一歩間違えばそういう状態になっていただろう。
人間は、常に転落と紙一重のところに生きているのだ。
これを読んでいるあなただって、例外ではない。
「絶対に大丈夫」なんて、ただの気休めだ。
明日の僕は、もしかしたら転落しているかもしれないのだ。
僕には自分でもはかりかねる心の闇がある。
現在の僕は定職を持ち、結婚して、たくさんの趣味に囲まれながら、平穏無事に暮らしている。
僕の心の闇があらわにならないのは、普通の人間として、バランスよく正常に生きているからだ。
何らかの原因でバランスを崩し、心の平穏が乱され闇に満たされたとき、それはもう僕ではない。
彼のお兄さんには一冊だけ著書があるようだ。
Amazonのその本のレビューは1件だけ。
著者自身からである。
明るく、そして希望に満ちたコメントであった。