教育つれづれ

電車内を見渡してみると、予備校や学習塾の広告を見かけることが多い。
多くのそういったものには、なんだかゆとり教育が悪いかのようなことが書かれている。
はたして単純にそういえるのか、はなはだ疑問である。
正直言って私には、教育についての議論の中で出てくる件の全ての意見に、一理あるように思えてならない。
ギチギチの詰め込み教育をやっては、子供の人格形成に阻害がある。
だからといってぬるま湯のような状態にすると、学力は著しくおちる。
そうかと言ってその中間というのは、どちらつかずで中途半端となる。
学力中心か、人格形成中心か。
学制制定以降の学校教育史を振り返ってみると、常にその二つの軸の間を、大きく行ったりきたり、揺れ動いているのが分かる。
戦後、経験主義的な教育が行われ、学力が低下していると批判された。
その批判から、70年代から80年代に、学力重視の教育が行われ、結果として偏差値重視・管理教育・受験戦争がおこり、校内暴力、いじめ、落ちこぼれが問題とされた。
この反省から、90年代に入って導入されたのが、これまでのゆとり教育であった。
そしてそのゆとり教育も、また学力低下の批判から撤回されようとしているのが現状なのだ。
そもそも学校教育は、何のためにできたのかと言うと、つまるところ富国強兵のためである。
国民全体の教育水準の底上げをして、欧米列強に支配されない、強い国家を作ろうとしたことに始まる。
そういった意味で考えてみると、当時の学校教育は目的がはっきりしており、あるべき人物像と言うのが明確で、教育はやり易かったのではとさえ思える。
それでは、今の学校教育は、何を目的としているのであろう?
平和憲法を持っている以上、富国強兵のためではない。
一言で言えば、「良い人間を作る」ということなのであろうが、その「良い人間」の中身が、各人各様で違ってくる。
価値観の多様化により、何をもってよい人間とするか、はっきりとは規定できなくなってきている。
そんな社会の中で、学校教育に求められることが多種多様になりすぎ、逆にはっきりとした目的が見えなくなってきてしまっているのではないだろうか。
目的がキチンと見えなければ、迷走してしまうこともやむをえない。
今公立学校に必要なのは、ゆとりだとかつめこみだとか言う次元ではなく、学校教育に何を求めるのか、明確に規定することだと思う。
家庭における教育、学校における教育、社会における教育それぞれに明確な役割を与え、そしてそれをフォローする体制を作り上げること。
それが今最も必要なのではないだろうか。

無學童子
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