脳死
昨日、臓器移植法改正A案が衆院を通過した。
その内容の是非はいろいろな要素があって、私にも何が正しいのかはわからない。
脳死問題で我々に突きつけられるのは、生と死というものの定義だ。
「生」が定義できれば、そうでない状態が自ずと「死」ということになると、私は考える。
心臓が動いていることが生なのか、脳が動いていることが生なのか、あるいは別のことで定義できるのか、何が正しいのかは私には全くわからない。
ただ、少なくとも私の死については私に決めさせて欲しい。
「我思う、故に我あり」
デカルトの有名な言葉だ。
私が何も思わなくなったら、それはすなわち私の死である。
私とは、私自身の意識であって、私を失った肉体は私ではない。
私が死んだら、私はもういないのだ。
従って、私が脳死となったら、私ではなくなった肉体は煮るなり焼くなり好きにすればよい。
願わくば、誰かの役に立たんことを望む。
ただ、この考えも絶対ではなく、人に押しつけることはできない。
それに、今は脳死といえる状態でも、科学の進歩によって意識を回復できる用になるかもしれない。
そうなると、前提条件が変わるから、考え直さなければならないのだ。